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大学教育を完全に作り変えるべきだ

日本の大学は不思議なところだ、何故かと言うと学部によるが数百万円という高い学費を取り授業を受けさせて四年かけて卒業させるというのに、最後の最後のアドバイスは「大企業に就職しろ」と言うものだからだ

つまり、まるで実践的な教育がされていない

というか採算性考えていない教育だ

教育は人づくりという考え方もあるが、親にとっては投資だ、だからこそ大学教育には「元を取れる」という教育が必要で、学生たちの親が払った授業料を10年以内に取り返せるくらいの結果がないとダメだと私は思う

広く知られているように、日本の大企業の創業、あるいはその源流は高卒や中卒、そしてそもそも学校を出ていない元武士とかであることが広く知られている

例えば五代友厚だが、彼は子供の時から優秀だと言われていたが、別に特別な教育は受けていない


年譜・功績
天保6年12月26日(1836年2月12日) - 薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれる。
嘉永4年(1851年) - 元服して、才助と名乗る。
安政4年(1857年)
郡方書役を命ぜられる。
長崎遊学を命ぜられる。勝海舟に会う。
文久2年(1862年)
2月 - 藩庁より舟奉行副役の辞令が下りる。
4月 - 蘭通詞岩瀬弥四郎のはからいで、千歳丸の水夫に変装して上海へ赴く[3]。高杉晋作らに会う。
文久3年(1863年) - 薩英戦争において寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送される[4][5]。
慶応元年(1865年)
3月 - グラバー商会が手配した蒸気船(オースタライエン号, The Australian)にて、薩摩の羽島沖から欧州に向けて旅立つ[3][6]。
5月 - イギリスのサウサンプトン港に到着。即日、ロンドンに向かう。
7月 - ベルギーに行く。
9月 - プロシアから、オランダを経由して、フランスへ行く。
慶応2年(1866年)2月 - 薩摩の山川港に帰着。直ちに、御納戸奉行にて勝手方御用席外国掛に任ぜられる。
慶応3年(1867年)
1月 - 小松清廉、トーマス・ブレーク・グラバーらとともに、長崎の小菅において、小菅修船場の建設に着手する[7]。
5月 - いろは丸沈没事故をめぐる土佐藩と紀州藩の交渉を仲介する。
幕府が崩壊する。御納戸奉公格という商事面を担う。
明治元年(1868年)
明治新政府の発足に伴い、参与職外国事務掛に任じられる。
2月 - 外国事務局判事に任じられ、初めて大阪に来る。同月、堺事件(フランス海軍襲撃と堺守備隊の狙撃)の調停にあたる[8]。
5月 - 外国権判事、大阪府権判事に任命される。初代大阪税関長に就任。
9月 - 大阪府判事に任ぜられ、大阪府政を担当する。
政府に大阪造幣局の設置を進言する。グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を六万両で購入する契約を結ぶ。
明治2年(1869年)
5月 - 会計官権判事として横浜に転勤を命じられるが、2か月で退官し下野する。
8月 - 大阪の両替商・久里正三郎の別邸に金銀分析所を設立する。
大阪通商会社、為替会社の設立に尽力する。
明治3年(1870年)3月 - 五代の要請で本木昌造が大阪活版所を創立する。日本で初めて英和辞書を印刷する。          
 6月-初めての鉱山経営として吉野郡天川郷和田村に収益性が最も高かった天和鉱山を手掛ける。
明治4年(1871年)4月 - 造幣寮(現・大阪造幣局)、竣工。
明治6年(1873年)1月 - 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立する。
明治7年(1874年)7月 - 半田銀山(福島県)の経営を開始する。
明治8年(1875年)1月 - 2月 - 五代の斡旋により、大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催。
明治9年(1876年)
9月 - 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立する。
11月 - 堂島米商会所を設立する。
明治11年(1878年)
8月 - 大阪株式取引所(現・大阪取引所)を設立する。
9月 - 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任する。
明治12年(1879年)11月 - 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設する。
明治14年(1881年)
3月 - 大阪青銅会社(住友金属工業)を設立する。
6月 - 関西貿易社を設立する。
開拓使官有物払い下げ事件に関わり、批判を浴びる。
明治15年(1882年)
7月 - 共同運輸会社を設立。
12月 - 神戸桟橋会社の設立許可を得る(1884年11月開業)。
明治17年(1884年)
5月 - 五代らの努力により大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)が開業。
明治18年(1885年)
1月 - 大阪北中之島1丁目26番地に居を定める(現・日本銀行大阪支店)。
9月 - 鹿児島より籍を大阪に移す。東京において日本郵船会社を斡旋する。勲四等に叙せられ旭日小綬章を賜う。
9月25日 - 糖尿病により、東京の自邸で没する。満49歳。大阪で葬儀[9]。
大正3年(1914年) - 大正天皇が演習のため大阪行幸の際、特旨を以て正五位を追贈される。
7月 - 五代友厚秘史が発刊される。


あえて言うなら安政4年(1857年)からの薩摩藩によって計16名の伝習生が長崎に派遣され、送られたときくらいかと思う。また、日本の川崎重工の実質的な創業者川崎正蔵もそうで、ろくに高等教育は受けていないわけだ、他の時代と比較すると日本の明治時代の人たちはかなり優秀だったわけだが、現代のように都市部ではジュンク堂書店や丸善などで、専門書コーナーでは五代友厚が読めた知識一生分以上のものが「ただ」で立ち読みできるのに、現代の日本人の大学生からなんで偉人が現れないのか不思議でならない

だからもっと実践的なことを教えたほうがいいと思う
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