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10年前私「スーパードライうめー」今の私「のどごしうめー」

日本人の所得はアベノミクスの期間を通しても実はそれほどあがっていないらしい

給与統計官僚破棄令和元年9月17日

らしい、というのは給与の統計を官僚が破棄したからだれもわからないからだ


現在日本は安倍総理を中心として1億総忖度社会となっているから統計ですら安倍総理の意に沿わなければ破棄される運命にある(すごい



でも確実に言えるのはお盆とかお正月に親戚が集まるときに以前はスーパードライを飲んでいたのにおじさんたちがのどごしとかクリアアサヒ(あの緑のやつ)をおいしいと言いながら飲んでいるという事実だ


普通人は子供が生まれて成人するまではお金がかかるから節約マインドになるが子供が家を出れば多少経済的な余裕がでて自分の趣味とかに使うお金が出てくる



で、あるにもかかわらずスーパードライではなくクリアアサヒ、のどごしを飲んでいた


消費マインドの低迷?貧困化?かはわからないが、私個人を思い出すとのどごしとかが出てきた時わたしは酒屋でアルバイトをしていたのだがお客に第三のビールとか発泡酒の違いはなに?と聞かれお酒の区分がリキュール扱いなんですよ、とか材料が違うんですよと答えていたことを思い出す


で、当時の人たちはみんな発泡酒や第三のビールを「お金がない人が節約するために飲むもの」と考えていた

実際、第三のビールや発泡酒はアルコールの税率を逃れて安いアルコール飲料を売ることを考えた結果生み出された妥協の産物だ


あれから10年、わたしは第三のビールと発泡酒が材料も製法も味も明らかにビールと違うのはわかっていながら結局のどごしとかクリアアサヒを飲んでいる


なんなら、歳が離れた弟などは最初から第三のビールをビールと言いながら買い、ビールと言いながら飲んでいる



それを見て元酒屋の店員のわたしとしてはなんか胸が痛くなってしまう


なぜなら第三のビールや発泡酒が出てきた当時、買い物客の人たちは第三のビールや発泡酒をまがい物として見ていたのにいつの間にか第三のビールや発泡酒をビールと認識したり、あるいは成人したときにはすでに第三のビールや発泡酒が市民権を持っていることで純粋な意味での(税率の意味ではなく)ビールをもはや重視しなくなっている

つまり税金のせいで本物ではなくまがい物を飲まされているのだから、言うなれば蟹ではなくかにかまぼこを蟹だと認識したり、マーガリンをバターと変わらないと言うようなものだからだ



このことは世界のビールメーカー同士の競争で考えると日本企業に長期的に見て深刻な影響を与えてきたとわたしは見ている


なぜなら世界のビールメーカーはビールをおいしくつくる努力を続けてきたのに、日本企業はビールと発泡酒と第三のビールという研究開発の力の分散が行われてきたからだ



そして何よりビールをのむという行為から税金のせいで人々が遠ざかるというのはあまりにも悲しい

そして自分までのどごし飲んでうまいと言う事実に腹が立つ


アベノミクスが始まってもう8年くらいか?(実感ないからわからんが

国民がスーパードライや一番搾りを気軽に飲めない今の日本はまだ好景気とは言い難いと思う


ちなみに北朝鮮は国民が豊かだと言える水準は「米飯に牛肉のスープ、絹の服に瓦の家」というふうに表現している

北朝鮮はまだ米飯に牛肉のスープ、絹の服に瓦の家の水準は達成出来ていないが、なら日本はどうなのさ?

と考えると、米は食べてるが、外食の牛肉はほぼアメリカ産だし、絹の服ならぬユニクロやGUやしまむらの服を着ているし瓦じゃなくスレート(瓦とは成分が違う)屋根の家に住んでいるからあんま北朝鮮と変わらない気がする


気軽にスーパードライが飲めないという事実はまだ日本が好景気ではないということを勤労統計が不正でだれにもわからなくても教えてくれるには十分な事実だ

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結局太陽光発電が一番てことだね

千葉の停電はまだ長引いているようだ

しかし太陽光発電を取り付けた人たちは昼間の間はテレビをつけて携帯電話を充電しノートパソコンを充電しお湯を沸かすことが可能だそうだ


これは送電線という大規模なシステムをひつようとする在来型の送電システムと比べると家の屋根からコンセントというごく短い太陽光発電システムの利点が生きている感じだ


無線による数キロ区間の給電システムがない以上、在来型の電力会社の給電システムは高圧電線がどこかで切れたらそこから先には電力を送り届けることができない


逆に歴史を振り返ると太平洋戦争の間の日本やヨーロッパ戦線のドイツが毎日B29やB25に戦略爆撃をうけながら戦争をたたかいつづけられたのは電力が普及していない時代で石炭や木炭に多くを頼っていたからに他ならない


太平洋戦争の間、アメリカ軍は毎日大型小型あわせて数百機の爆撃機を日本に飛ばし地図で目についたからという理由でいろいろな都市を空襲し、戦闘機は機関銃でたまたま歩いていた人を狙い撃ちにしたが、日本は数ヶ月たたかいつづけられた


またドイツは戦略爆撃をうけながらも逆に戦車の月ごとの製造数を増やすということまでしている(すごっ)

これはひとえに日本とドイツは当時エネルギーを石炭や木炭という保存しやすく小分けしやすく使いやすいものに頼っていたからに他ならない


だからアメリカ軍が毎日毎日B29を飛ばしてもたたかえたのだ(終戦近くにはアメリカ軍は爆撃する目標がなくなったほどだ)


今、私達は普段電力会社の送る電気によって生活して低コストな電気を活用して生活している


しかし各家庭の持つ太陽光発電はそれぞれは高コストなのだが、災害にとそれぞれが独自に生き残ろうとするという点で在来型の発電所よりエネルギー源としてみれば災害に強いと言える



そういう点では太陽光発電はリスク分散型の電源であると言える


で、なぜかよくわからんのがネトウヨの理屈で「太陽光発電つけてても屋根ごと飛んだら意味ない」とか「昼しか仕えない」「つねに太陽に向けないといけない」という眠たいことを言っている


私は昼と言っても日の出から日没まで使えれば十分じゃないか?と私は思うのだがネトウヨ改めてネトサポには理解できないのかもしれない

中には冷蔵庫をつけてテレビを見て携帯電話充電するくらいしかできない

とかいう意見すらあるのだ(十分やんけwww)

どうやらネトサポという消費社会の申し子には太陽光発電は非力すぎるのかもしれない

私は太陽光発電が人類の妥協点(完璧じゃないがまぁまあ良い)だとは思っている

なんつー薄情な奴らだ

葬儀場から帰宅した


私は葬儀場の入り口で受付をしていたので少し疲れた

久々に見た親戚達には悪いが私は受付のをしながらちょっと薄情なんじゃないかと思った

なぜかといえば今日が通夜で明日の昼には故人の遺体は棺ごと焼かれるというのに私のいとこときたら9時にはもう帰ろうとするのだ


故人の生前、だいぶ可愛がられていたのに通夜からそんなにあっさり帰るのかと思うと少しガッカリした

だってあと10数時間で焼くんだぜ!?

もう少し居てもよかろう?

故人は長く生きすぎたのか、あるいはこんなもんなのか、私はわからなくなった

死んだら見れる顔になった

今日は葬儀に来ている

通夜の会場でこの記事を書いている

夕立ちの空は日が落ちると淡紅藤から本紫に色を変えた

斎場に入り祭壇へ近づき

横に立ち故人の棺の窓から中を覗くと暖色系の照明の下、顔色がよく見えて不思議な気分を感じた

故人が亡くなる前、私は見舞いに病院をおとづれたのだが、その時私はベッドに横たわる相手の顔をちゃんと見られなかった

なぜなら弱っている老人に向き合う心の強さが私には無かった事によりによって病室についてから気付いたからだ

そして今日、棺桶の棺のプラスチックの窓ごしに、私は正視できるようになった

皮肉だがなくなってようやく老いた相手を受け入れられるようになったのだ

いじめられたら「にげろ」という教育は生物学的に間違っている

日本ではいじめられっ子にいじめられたら転校することを薦めるような世論が一定数存在する

逃げたらいじめられる関係がリセットされて快適な学校生活が手に入るという考え方によるものだ


しかし残念だが私はこの考え方は間違っていると思う

つまり目をつけられやすい人格攻撃されやすい人格をどうにかしない限りどこに逃げてもいじめは続くのだ


だからいじめられやすい人は場所を変えるより人格を変えなくてはいけないという基本的な事実を大人は子供に教えるべきなのだが、なぜか日本ではそのことを無視して


逃げて良いんだよ、とかいじめる側が悪いみたいな優しい言葉をかけて本質的問題を解決することを迂回させる教えが広まっているのだ


私はもしかするとこの逃げて良いんだよ教育は日本社会を弱体化させるための文部省とか日本政府の策略なんじゃないかと考えている

私が学生のころ、とくにダウンタウンとかの「バカにしてる笑いを取る」というやり方をテレビで見て影響を受けるやつが多く、よしもと芸人のよくやるハゲいじりとか顔でかいいじりのような人の特徴で人を馬鹿にする芸人気取り同級生が多かったのを覚えている

今おもうとダウンタウンはクソみたいな芸風のせいで社会に悪影響を与えているのだが、昔はもっと影響力があった


私は九州の田舎者なのだが、やはり高校生のころ吉本興業のよしもと芸人の影響を受けた「ちょっかい出して笑いを取ろうとするやつ」あるいは「イジると称した侮辱」みたいなことを受けたことがあるのだが、その時私は意図的に食ってかかるとすぐにいじりという不快な行為はなくなった


つまり私はめんどくさいやつだと思われたわけだ


で、私は今家庭菜園をしていて雑草を抜いていると雑草の構造を見ると思うのだが、植物というほぼ動かないような生き物でも横にいる他の個体を攻撃しながら生命を維持している傾向がある


つまり巧妙に根っこを張り巡らせて土を包み込むあるいは掴むように成長して、横にいる他の個体に栄養や水を与えないように意地悪しているのだ


だから植物は進化の過程で背を高くして横の他の個体の光を遮るように進化したり、あるいは芝のように最速で横に広がり他の個体に余地を与えないように進化したりして生き残りを図っている


平和そうに見える植物ですら互いに攻撃しあっているのだ


なら動物である人間も攻撃しあっている状態が普通だと考えるべきで、みんななかよしみんななかまという理想の状態はなかなか達成できないと考えるべきだ




だからいじめられやすい人には逃げて良いんだよじゃなくいじめられにくくなるにはどうすればいいか?を考えるように促すべきだ


つまり進化しろと教えるべきなのだ


勉強をがんばって見返すとか意味わからん対策は対策にならない


べつに空手を習う必要はないし暴力を振るう必要もない


厄介になればいいのだ


厄介になればターゲットは他に向くのだが、なぜか日本ではいじめっ子が刃向かうことを否定する論調が主流だ


日本の手を出したら負け教育、逃げて良いんだよ教育は、おそらく政府に国民が向かってこないように精神的に去勢するための教育なのだろうけど、殴ったら負けとか穏便に済ますとか相手にしないとかその場を立ち去るみたいな日本人の卑屈な発想は気持ちが悪い



生物学的には常に争う状態が普通なのだから自分が変わらないと安住の地は得ることが出来ない

それを子供に教えるべきだ